2013/06
女子栄養大学の創設者 香川綾君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 8 ]


--縁の地を訪ねる--
香川昇三と綾

 女子栄養大学はJR駒込駅の北側すぐの商業地域にある。正門を入ると創立者の香川昇三・綾の胸像が並んでいる。ここには短期大学部と香川調理製菓専門学校と夜間学部がある。
 大学、大学院は都心を離れ、埼玉県の坂戸にある。池袋から東武電車東上線に乗って約40分で若葉駅に着く。駅前のロータリーを渡って4〜5分の所に坂戸キャンパスがある。広々とした白壁の校舎が並び、栄養大学らしい清潔さが感じられる。


 目的の記念展示室は図書館の2階にあった。ここで香川綾と昇三の女子栄養大学の足跡をたどることができる。開学以来続けて発行されている「栄養と料理」、考案した計量カップやスプーン、料理カード、栄養のバランスが一目でわかる四群点数法、その他愛用の品々が展示されている。

子供心の決心
 香川綾は和歌山県本宮村で明治23年に生まれた。父親が警察署長で県内の転勤があり、尋常小学校は田辺、加太、湯浅などで過ごした。和歌山県立師範学校の入試準備の勉強をしている時に、母親が急性肺炎で亡くなった。綾14才の時である。
 母の三姉妹は皆敬虔なクリスチャンであった。母方の祖父は紀州徳川藩の食膳掛をした人で、母親も料理上手であった。綾は母から与えられたものは食生活の大切さ、医学への道、神を敬う心の3つ、と言っている。
 母親が亡くなったのは充分な治療ができなかったのが原因だとして、自分も医学の道に進もうと決心した。しかし、和歌山には女性が医学を学ぶ学校はなく、父の勧めで嫌々ながら和歌山県立師範学校女子部に入学した。5歳年上の姉も師範学校を卒業している。姉は優等生、自分は奔放な“はみ出し型”と本人は言う。
 卒業時には教頭から“教師の理想像から外れている”ので、成績は優等だけど2番との訓示を受けた。その理由の一つは男女不平等にあった。男子生徒には理科の授業があり、その時間、女子は裁縫だった。これに不平を言ったためである。教会で男女平等の思想を体感している綾には、大正7年に小学校の教師になって男子の給与が17円、女子が15円という差別にも不満であった。


医学の道へ
 綾は小学校の教師をしながら医学校への志望を持ち続け、大正10年に東京女子医専を受験してトップで合格した。入学した中では一番年上の22歳であった。父は既に退官しており、旧紀州家の南葵育英会からの奨学金が家計を助けた。
 女子医専では東京帝大医学部の教授が教えてくれることが多く、基礎的な医学の勉強に励んだ。特に人体解剖では、人体の精妙さと神秘さに感動して学んだという。
 臨床医学では三井慈善病院や松沢病院、慶応大学で学んだが、3年次になって医師になることに自信を失った。その理由は、病気については未だ解明されてないことが多いにも拘らず、医師は治療のために決断をしなければならない。志望を基礎医学や生化学へと変えるが、郷土和歌山出身の島薗順次郎・医学部教授より初志を大切にするよう諭されて、大正15年、東京女子医専を卒業と共に東大の島薗内科に入局した。
 東大医学部には昭和6年までの5年半を在局したが、東大の女性蔑視は酷いもので、身分は「介補」という無給の雑役掛である。ここで脚気病を研究する香川昇三という、将来の伴侶に出会った。
 島薗研究室で与えられたテーマは「ご飯の炊き方」である。米の吸水量、火加減、気密さ、炊飯時間など詳しいデータを取る。今のような炊飯器を開発するなら当たり前のことだが、当時としては画期的な研究だったのだろう。次に与えられたテーマは、「食品のビタミンB含有量と調理影響」である。ビタミンの計測器などはまだ無いので、動物実験である。次が「胚芽米の作り方とその栄養価」、「病院給食の改善」などである。テーマで共通しているのは脚気病と栄養との関係である。
 昭和5年、恩師島薗夫妻の仲人で綾は、香川昇三と結婚した。


女子栄養学園の設立
 昭和の初め頃、我が国の医学はドイツ医学の流れで治療医学中心であり、予防医学への関心は薄かった。島薗教授は病気を未然に防ぐ栄養学に関心を持ち、教授の勧めで綾は昭和8年、自宅で「家庭食養研究会」を始めた。栄養学と料理を結びつけ、社会活動、実践活動をする。生徒は医局員の夫人、娘さん、近所の住人など20人ほどで、栄養学の講義と料理作りを行った。
 一流の料理人に日本料理、中華料理、フランス料理、懐石料理、関西料理、家庭料理を作ってもらう。その材料や調理方法を計量化して、栄養バランスを考えた美味しい料理を誰にでも作れる料理カードにすることから手掛けた。レシピの始まりである。家庭料理は叔母の田中米が担当した。祖父が料理人であったことが母、叔母、綾と引き継がれていった。
 女子医専で医学を学んだこと、東大医学部で栄養学を学んだことが活かされて、昭和10年に月刊誌「栄養と料理」を創刊、昭和12年に「女子栄養学園」を設立した。
 綾は夫昇三の協力を得て、駒込に新校舎を建設した。学生も徐々に増えて順調に滑り出したかに見えたが、日中戦争・太平洋戦争と続く中で食糧不足時代となる。更に校舎の焼失、疎開、夫の病死と苦難が連続する。


料理を科学する
 戦後の食糧難のときこそ栄養学者の出番である。栄養学と予防医学を目的として、1950年に女子栄養短期大学を創設し、1961年に4年制の大学とした。今なら生活習慣病対策として栄養学は必須であるが、当時は文部省も“料理学校”程度の認識しかなく苦労したようだ。1947年に栄養士法、1954年に学校給食法、1958年に調理士法が公布され、栄養学への認識が急速に高まっていく。
 科学的料理法では、料理カードの作成に続いて計量カップ、スプーンを作成した。メートル法を採用して計量カップは200cc、計量スプーンは5ccと15ccとした。更に食料の四群点数法を考案した。食品を栄養的な特徴によって四群に分け、80カロリーを基準単位1点とする“食品別エネルギーの見える化”をして、一日の摂取量標準20点がすぐ計算できるようにした。これらは今も使われている、優れた考案であった。
 香川綾は自らの実践栄養学と医者としての運動を実戦して、97歳までの長寿をまっとうした。勲二等瑞宝章、文化功労者、名誉都民など多くの賞に顕彰されている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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